マニット

好きな歌詞をただただ訳すだけの人

記事訳:アンバーが、境界を超えて語ってきたこと

元記事:엠버가 경계를 넘어 말해온 것 http://me2.do/5CdMXWBk




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BORDERS. 「境界」というタイトルの新曲発表を目前に控えた3月24日、f(x)のアンバー、いや、その瞬間「ただのアンバー、人間アンバー」として話していると明かした彼女は、SNSを通して「皆さんにいくつか言いたいことがある」と言った。2年間頭の中にあった話を音楽と映像にし、ついに世界に放つときめきと共にアンバーが告白したのは、不安感だった。「この曲を書く時、たくさん勇気を出しました。なぜならこのテーマが、人々に話してオープンにすること自体とても怖いことだったんです。」


「このテーマ」が正確に何を指しているのか、アンバーは言わなかった。代わりに彼女は「BORDERS」の前後として比較的鮮明な隠喩をばらまいた。「ママは言った。境界(BORDERS)を超える時、追い詰められても絶対に怖がらないでって。だからしっかり立って、あなたの道のために戦いなさい」と始まり、「私をじろじろ見ているすべての人達」による抑圧に苦しみ、「私が属することのできる場所」を探して葛藤するけれど「絶対に真似はしない」と決心する歌詞は、人種や性別のアイデンティティについて具体的に指しているわけではないけれど、レディー・ガガの「BORN THIS WAY」のように少数者に向けた支持と団結のメッセージを確かに表している。特にミュージックビデオでアンバーが入っている透明な箱は、性少数者が自身の性的指向性をさらけださないことを意味する「クローゼット(押入れ)」を自然に連想させる。アンバーは昨年、自身が「トムボーイ(男の子のように見えたり、闊達に行動する女性)」として生きてきて経験した社会的圧力について「男性と女性がひとつの見かけに限定されるとは思わない。誰かがただ違っているという理由だけでむやみに裁かないで下さい」という文を残したし、「全ての同性愛嫌悪、人種差別主義者、性差別主義者、馬鹿者達に反対する」というスローガンが書かれたTシャツ姿で撮った写真を公開したりもした。生憎その写真の中のアンバーは、2つの車線の間の境界の上を突っ切って立っているのだ。




ある面では婉曲した、ある面ではとても直接的なシンボル達。YouTubeの「BORDERS」ミュージックビデオは1週間の間に1万を超えるコメントが書き込まれた。アメリカ、台湾、インド、パレスチナ等、世界のK-POPファン達は「ありがとう」と「愛してる」はもちろん、それぞれの意見を出した。「この歌は妙にカミングアウトのように見える」という解釈、「トムボーイレズビアンなのかという意味ならば、アンバーは違う。番組で時々男性に惚れた話をしたことがある」という反論もあった。しかしここで重要なことは、アンバーのアイデンティティを探り出したり規定することではない。かえって「アイドルがTVで言った言葉で、彼らのセクシュアリティについてあれこれ言うのは意味がない。韓国では異性愛者ではない存在は絶対に受け入れられないし、それは自分のキャリアだけではなく会社やメンバー達までも崩壊させることだ。誰でも信じたいように信じることはできるけど、その信じていることが事実かどうかは別の問題」というある海外ファンの指摘は、韓国を拠点としているけれど消費者はどんどん多様な文化圏へ広がっているK-POP市場が対面する、新たな課題だ。


「尋ねることも話すこともするな。」韓国社会において、アイドルのセクシュアリティについての態度は、去る2011年に廃棄されたアメリカ軍の同性愛者の兵役制限処置を思い出させる。もちろんアイドルだけではなく、他人の性別アイデンティティ性的指向性について探ったりむやみに決めつけることは無礼なことであり暴力にもなり得ることだ。しかし「異性愛者ではない」人間は、存在さえしないかのように考えられ、誰かが異性愛者ではないかもしれないという可能性を徹底的に排除したり、それ自体を侮辱だと受け止めることで他者化させることはまた違う方向での抑圧として作用する。ミュージカル「プリシラ」で、ドラァグクイーン姿で公演をしたチョ・グォンへ向けられた騒動のように、「あえて言わなければすべての者が異性愛者として仮定される社会において、ほとんど「やらせ」であるその問答は、同性愛者の存在を象徴していない」(MECO, 「ゲイじゃないの?という質問に答える方法」)。 つまり、「Aは当然異性愛者なのに、外見だけ見て歪曲するな」という主張において、「外見だけ見て他人を決めつけるな」というのは基本的に正しい話かもしれないが、問題は「当然異性愛者」という間違った前提にある。同性愛の規則を借用したBLとGLコンテンツがK-POPファン層で積極的に生産および消費されているという面から見た時、それはとても矛盾しているともいえる。そして徹底した異性愛中心社会においてファンタジーとしてのみ扱われながら伏せられていた争点達は、韓国の外側の世界とぶつかりながら次第にはっきりとした現実的な葛藤を表している。昨年SUPER JUNIORのチェ・シウォンはアメリカ連邦最高裁判所同性婚法制化へ反対するジョン・ファイア牧師の文をリツイートし物議を醸した。当時一部の海外ファン達は、コンサートでメンバー達と上半身裸で抱き合う等のスキンシップをするチェ・シウォンの写真を送り「これについて説明してみろ」と抗議したし、批判が続いたところでチェ・シウォンは「多くの方々を傷つけてしまい申し訳ない」と謝罪文を掲載した。

だから今必要なことは、「Aがどんな人であろうと別に重要ではない。ありのままのAを愛している」という宣言よりも、Aが「どんな人」なのかをもう少し理解するための努力だ。当然すべての人が異性愛者ではいられない世界で、誰かが「違う」方式で自分をさらけだした時、その人のための道は、「違って見えるけれど他の人達と同じ(異性愛者)だ。」と、見えない障壁を代わりに積み上げて可視化を遮断することではなく、違う存在へ向かった暴力に共に立ち向かって戦うことで境界を壊すことなのだ。倫理的には当然であり、さらには市場のためにもそうだ。これは単にアンバーについての、K-POPを取り巻く話というだけではない。しかし同時に今K-POP市場の製作者とアーティスト、消費者すべてが背を向けずに答えを探さなければならない問題でもある。いつか、次の誰かが「とても怖いこと」だと思わずに境界を超えて、自身の物語をさらにはっきりと語ることができるように。